旅に出る前に知りたい風土〜水を知る旅〜 


同じ場所でも、何も知らずに訪れるのと、事前に知識をつけてから向かうのとでは、まったく印象が変わることがある。「知っておく」ことは、初めて見るはずの景色を立体的にするからだ。事前知識があることで風景が輝き、その土地を歩くことの感慨が増す。そんな、一歩踏み込んだ、味わい深い旅。
 


水がかたちづくる湖北の風景と味


日本最大の湖、琵琶湖。地理的にも精神的にも琵琶湖を中心とした暮らしを営む滋賀県の人々にとって、水は切っても切り離せない大きな存在だ。その北東部にあたる湖北エリアは豪雪地帯でもある。雪解け水にも恵まれ、琵琶湖や地下水に支えられた、水の豊かな地域といえる。

前編では、湖北の冨田酒造を訪ね、酒の大半を占める水が土地の味をそのまま映し出し、水が酒として立ち上がる過程を見てきた。後編では、その水が土地の中を巡り、食や文化としてかたちを変えていく現場を追っていく。
 
琵琶湖に面した料理屋〈湖里庵〉の左嵜謙祐(七代目治右衛門)さんと、湖北・余呉で雪解け水の恩恵を受けながら稲作に取り組む〈くさおか農園〉の田中真由美さん。2人は、日々、水とどのように向き合っているのだろうか。

 

水が育てた、湖北の食文化

〈湖里庵〉が位置するのは、奥琵琶湖の港町海津。江戸時代から200年以上続く鮒寿し屋〈魚治(うおじ)〉が営む料亭旅館だ。主に提供している料理は、鮒寿しと地産の湖魚を使った懐石料理。店主の左嵜謙祐さんは七代目治右衛門を襲名し、〈湖里庵〉の看板を守り続けている。
店内から琵琶湖を望むと、その左手に朽ちた木の杭が見える。

「これは桟橋の跡であり、かつて港町として栄えていた頃の名残りです」と、左嵜さん。その風景の手前に広がる水は、ただ静かにそこにあるわけではない。この土地の暮らしや食を支え、かたちを変えながら循環してきた水である。「海津という街で育まれてきた食文化を、自然の歯車が狂うことのないように守り、そして育てていきたい」。これが、左嵜さんの信念だ。

 

琵琶湖の水とともに育まれてきた、「鮒寿し」という発酵食文化


この店のアイデンティティとも言える〈魚治〉の鮒寿しについて紐解けば、琵琶湖の水を起点とした循環と、それを受け止めてきた人々の営みが見えてくる。鮒寿しという料理の名は広く知られている。しかし、その成り立ちや、背景にある水とともにある暮らしまでが語られることは、決して多くない。だからこそ、左嵜さんの話は興味深い。

〈魚治〉では先祖代々使い続けてきた蔵で、鮒寿しを作り続けてきた。物心つく頃には、左嵜さんも自然とその作業を手伝うようになっていたという。学校から帰ってきたら山ほど魚がいて、大人たちがずっとその処理をしている。左嵜さんも最初は見よう見まねでウロコ取りから始め、力がついてきたらエラ取りをするようになり、少しずつ作業を覚えていった。
「鮒寿しは、単なる保存食ではありません。そこには、水が湖から田んぼへ、そして再び人の暮らしへと巡る中で生まれた関係があります」

もともとフナは湖の沖合に生息する魚だが、春になると産卵のために岸辺へと近づいてくる。田んぼに水を張ると、人がつくったその水辺を産卵の場として選ぶようになった。田んぼの水は外敵が少なく、土に触れることで水温もやわらぐ。湖の水とは異なる条件が、卵にとって適した環境をつくっていたのである。

その結果として、人々は田んぼで多くのフナを獲れるようになった。しかし、一度に食べきることはできない。そこで、フナを塩に漬け、さらに同じ土地で収穫された米とともに発酵させて保存するようになった。水に育まれたフナと、水で育てられた米。その組み合わせによって、鮒寿しはかたちづくられていったのだ。

ところで、鮒寿しというと、強烈な発酵の香りを思い浮かべる人も多いだろう。しかし、左嵜さんがつくる〈魚治〉の鮒寿しは、その印象とは異なり、香りはやわらかく、まろやかで、味わいもどこか清らかだ。それは、発酵を“強くする”のではなく、水と環境のバランスの中で整えていくことで生まれる味わいでもある。
「私たちの仕事は“つくる”というよりも、菌が気持ちよく働ける環境を整えることなんです」左嵜さんはそう話す。発酵とは、水と空気、そして微生物が関わり合う現象である。どの菌が働き、どのような味になるかは、その土地の環境に委ねられている。だからこそ、人ができるのは、環境を整え、その流れを崩さないことだけだ。「自分がつくった、と言い出した瞬間に、何かがずれてしまう気がするんです」その言葉は、水の流れに身を委ねる感覚とも重なる。料理に対する考え方も同様だ。

「自分を表現する料理ではなくて、その後ろにある琵琶湖や、この土地の食文化を感じてもらいたい」
 
湖里庵の料理は、食材を加工して別のものに変えるというよりも、水に支えられてきた関係性を、そのまま皿の上に置くような仕事に近い。

「お客様が『美味しいね』と言ってくださったら、『環境のおかげです』と答えることが多いです」その言葉は、決して比喩ではない。たとえば川魚は「クセがある」と言われることが多いが、それは本当は川魚本来の香りではなく、流通の影響で変化してしまっている場合が多い。水揚げした直後の鮮度のいい状態で食せば、その清らかで透明感のある味に驚かされるだろう。この場所で食べるからこそ成立する味があるのだ。さらに、「食材を“半径の中”で捉えることで、見え方も変わる」と左嵜さんは続ける。広い流通に依存すれば、ひとつの食材を長い期間扱うことができるが、土地に限定すれば、旬の期間はごくわずか。その短さを補うために、発酵や保存の技術が生まれてきた。それは、水とともにある時間を延ばすための知恵ともいえる。

「循環という言葉はよく使われますけど、本来はその中に自分がいる感覚が大事だと思うんです。自然が循環する様子を人間が外から観察するのではなく、人間もその循環の一部にいると捉えるべきなのでしょう」

琵琶湖は、この地域にとって単なる風景ではない。水は常に流れ、巡り、その中に人の営みが組み込まれている。だからこそ、水をどう扱うかが、そのまま文化のあり方に結びついている。

店の窓から見える湖面は、静かで、どこまでも穏やかだ。しかしその水は、湖にとどまることなく、田んぼへ、食へ、そして暮らしへと巡っていく。

水が育てる、湖北の米の味


長浜市街から車で約一時間。湖北の北端に位置する余呉は、山で囲まれた中山間地域だ。地域の9割ほどが山林で、平地はわずか1割に満たない。気候は、隣接する北陸地方とほぼ同様で、豪雪地帯として知られる。春にはミネラルをたっぷり含んだ雪解け水が田に流れ込み、夏の間も地下水を汲み上げることで、年間を通して新鮮で澄んだ水が水田へと供給されている。
「このエリアは平地に比べて標高が高く、昼夜の寒暖差が大きいので、滋賀県の中でも特に美味しい米がとれる地域だと言われています」

そう話すのは、〈くさおか農園〉の田中真由美さんだ。田中さんは、およそ7ヘクタールの圃場(ほじょう)でコシヒカリや在来種の滋賀旭を中心に、米や野菜の栽培に取り組んでいる。さらに、米粉用の品種など用途に応じて複数の米を育てており、それぞれの土地条件や水の状態に合わせて使い分けている。従来の減農薬栽培に加え、2021年からは農薬や化学肥料を使わない米作りや野菜作りにも取り組む。
この地域の水の特徴は、その“冷たさ”にある。地下水は真夏でも16度前後と低く、この水温が米の生育に大きく影響する。

「作物は冷たい環境では呼吸が穏やかになり、エネルギーである糖をため込む性質があるんです。水温の低さに加え昼夜の寒暖差もあるため、日中にため込んだ糖の消費も少なく、ゆっくりと成長するため、しっかりと味が乗る」と、田中さん。実際に、この地域で育った作物は、甘みや旨みが際立つと言われる。水の温度や流れが、そのまま味に反映されている。
田中さんの農業は、できる限り外部からの投入を減らし、土と水の力に委ねることを基本としている。冬の間も一部の田んぼでは水を張る「冬期湛水(とうきたんすい)」を行い、微生物の働きを促すことで土壌環境を整えていく。さらに近年では、ソーラー駆動の自動抑草ロボットも導入し始めた。

「ロボットが水田を縦横に走って水を濁らせることで、雑草の光合成が抑えられるんです。これによって、機械除草の回数を減らすことができます」

こうした取り組みは効率化の為でもあるが、水と土のバランスを崩さずに農業を続けていくための工夫でもある。「外から何も入れないお米は、その分その土地の特徴がそのまま出やすいんです」

水の状態、土の質、気温の変化。そのすべてが、その年の米の出来を左右する。〈湖里庵〉で語られていた「循環」は、ここではより具体的なかたちで現れている。水はただ流れているのではなく、温度を持ち、成分を持ち、土地の条件と結びつきながら、作物の味をかたちづくっているのだ。そして、その水は琵琶湖へとつながる流れの中にある。ふと、〈湖里庵〉で左嵜さんがこんなことを言っていたのを思い出した。

「この地域の水は、すべてつながっているんです。使い方がそのまま環境に返ってくる。子供の頃、近所の大人たちからそう教えられました。だから、湖にゴミを捨ててはいけないし、きれいに使い続けるべきなのだ、と」

湖、田んぼ、食、文化。そのどれか一つだけを切り取ることはできない。湖北という土地において、水は常にかたちを変えながら、人の営みとともにあり続けているのだ。
湖北から、新幹線の通るJR米原駅へ電車で向かう。車窓からは、琵琶湖や田園風景が広がっていた。これまでは、自然豊かな美しい風景として目に映るばかりだった。しかし〈冨田酒造〉や〈湖里庵〉、〈くさおか農園〉で話を聞いた今では、この風景の中に、水と密接につながった人々の暮らしや歴史が立ち現れるようになり、「湖北の風景」という固有の輪郭を帯びて見えてくる。

そしてその風景は、眺めるだけのものではない。この土地の地酒や郷土料理の鮒寿し、米を通して、視覚だけでなく、香りや味わいといった感覚によっても体験することができる。

水を知る旅・フォトギャラリー

湖北地方をさらに味わう旅



Text:Ayano Yoshida
Photo:Yuki Arimitsu



いつもと違う滋賀県観光には、湖北地方の「水を知る旅」がおすすめ。

湖里庵(こりあん)


所在地滋賀県高島市マキノ町海津2307
アクセスJR湖西線「マキノ駅」から徒歩約20分、または国境線バス「海津3区」停留所からすぐ
電話番号0740-28-1010
(電話受付時間 9:00〜20:00)
※月初めの営業日に電話にて予約受付(2ヶ月先まで)
URLhttps://korian.jp/
Instagram@korian_kaizu
休業日火曜、第1・3水曜


 

鮒寿し 魚治


所在地滋賀県高島市マキノ町海津2304
アクセスJR湖西線「マキノ駅」から徒歩約20分、または国境線バス「海津3区」停留所からすぐ
電話番号0740-28-1011
(電話受付時間 9:00〜20:00)
URLhttps://uoji.co.jp
休業日火曜、第1・3水曜


 

くさおか農園


所在地滋賀県長浜市余呉町国安434
アクセスJR北陸本線「余呉駅」から余呉バス「東野」停留所から徒歩約8分
URLhttps://kusaokanoen.thebase.in/
Instagram@kusa_oka
営業時間8:30〜17:00
休業日日曜


 
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