目的地にしたい料理屋【うをげん】

JR小田原駅から徒歩約5分。観光客向けの賑やかな店が並ぶ通りを抜け、住宅街に差し掛かると、辺りは急にしんと静かになる。その中でぽっと青い看板を灯しているのが、「うをげん」だ。風にはためく濃い藍色の暖簾と、仕立てのいい木の引き戸。その佇まいから、ここが静かにじっくりと酒と魚料理を愉しめる店であることが伝わってくる。
木枠で縁取られたカウンターに、飴色に艶を帯びた木の腰板。奥には畳敷きの小上がりがあり、座卓と藍色の座布団が整然と並ぶ。白壁に掲げられた手書きの品書き、行灯のような灯り、使い込まれた木の柱や古い箪笥が、昭和の町場の寿司屋や小料理屋を思わせる端正な空気をつくっている。年季の入った木や石の質感が趣を添えつつ、店内には手入れの行き届いた清潔感と、程よい緊張感がある。けれど、店主の須藤幸春さん・真弓さんご夫妻のやわらかな雰囲気に触れると、不思議と肩の力が抜けていく。
この店にある酒は、キリンビールの大瓶かエビスビールの中瓶、日本酒は菊正宗のみ。潔いラインナップだ。まずはビールを注文し料理は何にしようか考えていると、山盛りのお惣菜が乗った小皿と汁椀が出てきた。お通しかと尋ねると、「これは、お店からのサービス」と、真弓さんが笑いながら答えてくれた。

「お通し、と呼んでしまうと、この小皿で料金をいただいているみたいでしょう。でも、これは無料ですから」

小皿に並ぶのは、旬の食材を使った家庭料理。この日は、わらびの煮物、きゃらぶき、筍の煮物、ひじきの煮物、れんこんとこんにゃくのピリ辛煮。汁物は、コンソメ風味の新玉ねぎスープだった。これだけでビール瓶1本あけられてしまいそうなほど、充実した内容だ。本当にこれが無料?「もともとは、一人暮らしのお客様にちょっとした小皿を出したことから始まったんです。お一人だと、家の食事で野菜をたくさん摂るのもなかなか難しいでしょう。そうしたらとても喜んでいただけて、お味噌汁もあったら嬉しいかしら、なんてお出ししているうちに、いつの間にか今のスタイルになっていたんです」

と真弓さんは続ける。この「サービス」は、今では初訪問でも常連でも、一人でも複数でも、同様に提供される。店内を見渡せば地元の人や、何十年とこの店に通う常連客も多いが、たとえ一見さんであっても分け隔てなく接してもらえることが、さらにまたこの店の居心地の良さにつながっているのだ。
そして、なんと言ってもこの店のメインは小田原の市場で仕入れた新鮮な魚を使った料理だ。刺身、焼物、フライ、煮付け。どれも魅力的でなかなか選べずにいると、隣の人が「地あじの刺身」と頼んでいるのが聞こえ、慌てて「同じのをお願いします」と便乗した。

運ばれてきた刺身はつやつやと輝き、ひと切れごとに身の張りがある。一口食べれば、ぴちぴちとした食感に感激してしまった。

「朝、市場で魚を仕入れると、すぐに店に戻って処理します。あじは、買ってすぐに三枚おろしにしました。骨まわりの血合いや余分な水分を早めに取り除くことで、身の鮮度が保てるんです」

と、幸春さん。だから、この店のあじの刺身は青魚らしい旨みはありながら、後味はすっきり。そのぶん、鮮度の良さがより際立って感じられるのだ。
続いて頼んだのは、むつの煮付け。これがまた、身がふわふわで、たまらない。なぜこんなにも魚の扱いが上手なのかと思いながら店の成り立ちを尋ねると、「元は魚屋だったんです」と、真弓さん。創業は、幕末の安政年間(1855年〜1860年)のこと。「うをげん」は小田原きっての鮮魚商として名を馳せたという。
その歴史を感じさせるのが、今も店内に飾られている千社札だ。千社札とは、名前や屋号を記した小さな札のこと。壁に並ぶ札はすべて、かつて「うをげん」と取引していた魚屋の名前だという。ざっと見ただけでも30近くあるが、これでも当時の取引先の一部に過ぎなかったそうだ。小田原の魚屋たちに、それほど厚く信頼されていた店だったのだ。
魚屋として始まった「うをげん」は、1970年代にスーパーが増えて魚屋の需要が減った時期に「残った魚をその日のうちに売り切るために」という目的で酒場を営むことになった。今はもう魚屋は閉じてしまったが、それでも新鮮な魚の料理を出すという信念はそのままに、毎朝早くに出発して小田原の市場まで足を運び、関東有数の漁場である相模湾、伊東方面などで獲れた魚をその目で見極め、仕入れている。

新鮮でピチピチなあじの刺身に、身がふわふわのむつの煮付け。「うをげん」は、小田原の魚の味の良さをあらためて教えてくれる。そもそも、この地域は地理的条件に恵まれていて、小田原の魚は脂ののり、味、香りの三拍子揃うと言われている。さらに、小田原漁港で水揚げされる魚は約60種とされる。

「小田原の海には砂地の漁場があるので、ヒラメやホウボウも獲れます。砂に身を潜める魚や、海底近くにいる魚が揚がるのは、海底の地形あってこそ。そういう魚種の幅広さも小田原の魚のおもしろさですね」

と、幸春さん。そんな話を聞くと、季節ごとにこの店を訪れ、小田原の海の移り変わりを知りたくなってしまう。
最後に、品書きを見ながらずっと気になっていた自家製の酒盗を頼んだ。

「うちの酒盗は、一般的な酒盗に比べて味が濃くて香りも独特です。でも、これこそが本物の酒盗だと思っています。初鰹が出回る時期に一気に仕込み、1年以上発酵させるんです」

と幸春さん。小鉢に盛られた酒盗の、まずはすっと鼻を抜けていく発酵の香りに驚かされた。箸でつまむ程度の量をほんのちょっと舐めただけでも、口のなかいっぱいに旨みが広がる。これには熱燗がいい。
ほろ酔いになってくると、店内に流れるラジオの音が急にノスタルジックに感じられた。自分が生まれるより前の、高度経済成長期の余韻を残す昭和の風景が、なぜか頭の中に浮かんでくる。私たちがそれぞれの心の中に思い描く「昭和の風景」を、この店の雰囲気や店主夫妻の佇まいが喚起するのかもしれない。
旨い酒と料理、ここでしか味わえない風景。この店のために小田原に立ち寄りたくなるほどの魅力が、ここにはある。例えば大阪や京都、名古屋から東京に戻る新幹線を途中下車して、この店で一杯呑むのも良さそうだ。


Text:Ayano Yoshida
Photo:Yuji Kanno



いつもと違う神奈川県観光には、小田原市の〈うをげん〉がおすすめ。

うをげん


所在地神奈川県小田原市栄町3-4-19
アクセスJR小田原駅から徒歩約5分
電話番号0465-23-4000
営業時間17:00〜21:00
営業日木曜、金曜、土曜


 
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